福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための
『明日のハナコ』上演実行委員会
Executive committee for presentation of drama"Hanako of Tomorrow"
in order to protect the freedom of expression in high school drama activity in Fukui
◆四国の「明日のハナコ」続報。
イワントモリ(岩渕敏司さんと森田祐吏さんによる演劇ユニット)の「明日のハナコ」上演のお知らせが届きました。どうかみなさん、足をお運びください。
と、これでもう用件はおしまいなので、僕がだらだらとつまらない文章を書き連ねるよりも、舞台を見た方が絶対に面白いとわかっちゃいるんですが、それでもなおだらだらとつまらない文章を書き連ねてしまうのが元教員の本能というものなので、やっぱりだらだらとつまらない文章を書き連ねてしまいます。すまん。
こんな文章があります。
「生徒が学校で勉強するのは、よい点を取るためであり、よい成績で卒業するためであって、本当に学問を自分のものにするためではなかった。よい成績で卒業するのは、その方が就職につごうがよいからであり、大学で学ぼうというのも、主として立身出世のために便利だからであった。そのような受け身の教育や、手段としての勉強では、身についた学問は出来ない。それどころか、多くの人々は、試験が済んだり、学校を出たりすると、それまで勉強したことの大半は忘れてしまうというふうでさえあった。」
これは1948年から1953年まで、中学高校で用いられた教科書の一節です。文部省が編集した「民主主義」という本。今から70年以上前の話です。実に明快極まりない文章です。今の学校教育に当てはめてもほとんど無理がない。
さらにこんなふうに続きます。
「もっと悪いことには、これまでの日本の教育には、政府のさしずによって動かされることが多かった。だから、自由な考え方で、自主独立の人物を作るための教育をしようとする学校や先生があっても、そういう教育方針を実現することはきわめて困難であった。(中略) がんらい、そのときどきの政策が教育を支配することは、大きな間違いのもとである。政府は、教育の発達をできるだけ援助すべきではあるが、教育の方針を政策によって動かすようなことはしてはならない。教育の目的は、真理と正義を愛し、自己の法的、社会的および政治的の任務を責任をもって実行していくような、立派な社会人を作るにある。そのような自主的精神に富んだ国民によって形作られた社会は、人々の協力によってだんだんと明るい、住みよいものとなっていくであろう。そういう国民が、国の問題を自分自身の問題として、他の人々と力を合わせてそれを解決するように努力すれば、しぜんとほんとうの民主政治が行われるであろう。」
繰り返しますけど、これは当時の文部省が作った教科書の文章です。「今の」文部科学省の方達に、これほどはっきりとした文章が書けるかどうか。僕たちはすぐに忘れてしまう。
ついでに言えば、最近、教員を志望する学生が減ってきた、なんてニュースを耳にします。教員採用試験で定員割れする県もあるとか。給料が安いからとか多忙化が激しいブラックな職場だからとか、その原因はいろいろに言われているようです。
でも僕は思います。みんな本当は学校が嫌いなんじゃないの。先生が嫌いなんじゃないの。だって、つまんないことしか教えてこなかった。よい成績を取ってお金儲けすることしか教えてこなかった。「真理と正義を愛する」教育をしてこなかった。「自主的精神に富んだ国民」なんか目指してこなかった。学校があんまり楽しくない場所だったから、好き好んでそこでまた働こうなんて思う学生は少なくなってきているんじゃないの。
理想を見失ったとき、現実に屈服したとき、その魅力は失われてしまいます。イジメだのモンスターペアレントだのが生まれたのも、多くの人たちにとって学校がイヤな場所になってしまったからじゃないか、と思います。
そしてさらに言えば、学校教育は社会の基盤であり出発点です。みんなここを通って社会に出ていく。学校がイヤな場所になってきたとするなら、その次の、この実社会そのものもイヤな場所になってきてはいないか。理想がない場所になってはいないか。パワハラやカスハラの増加はその兆候ではないか。
いやいや。話を大きくしすぎたかも知れません。とはいえ。
失われたものは取り返したらいい。忘れたものは思い出したらいい。理想がないなら自分で掲げたらいい。
四国でまさに、理想の旗が振られようとしています。
イワントモリの「明日のハナコ」へようこそ。
*蛇足 「民主主義」は角川ソフィア文庫から復刻されています。必読。
(玉村徹)
◆忘れないで。 ~愛媛県東温市の「明日のハナコ」~
イワントモリ(岩渕敏司さんと森田祐吏さんによる演劇ユニット)の「明日のハナコ」上演のお知らせが届きました。どうかみなさん、足をお運びください。
9月27日(金)~9月29日(日)、小劇場 THEATER NEST(〒791-0211 愛媛県東温市見奈良1125 )で、「明日のハナコ」が、演劇ユニット・イワントモリによって上演されます。
頼もしい。
何が頼もしいって、そりゃあ、生きていくのはたいていはしんどいものですが、それでも前を隣を後ろを、この道を走っているのが自分一人ではないと知ることほど嬉しいことはありません。
この世界には、実在物としての愛は存在しないと思います。「ない」なんていうと語弊があるかも知れないけど。でも、プーチン君やその仲間達がそのことは証明しつつあるように思います。愛も優しさも生きる意味も、宇宙の真理でもなければ物理の法則でもない。何もしなくても存在してくれるほど確かなものではない。世界は時に冷たく、残酷です。
けれども、僕たちのなかにはある。ていうか、僕たちの中にしかない。それらは何度も打ち壊されてしまうんだけど、だからこそ、僕たちの手で、何度でも何度でも作りあげていかなきゃならない。
「もしかしたら愛はあるかもしれない、でもそれはあなたたちの中にあるだけ。もしあなたたちの中になければどこにもない」(カレル・チャペック「マクロプロスの処方箋」)
僕たちは悲しい連帯の中に、それらを何度も何度も語り伝えていきます。こんなことがあったよ、こんな悲しいこともこんな嬉しいこともあったよ、そう語り継いでいきます。粘り強く、しつこく、勇気を持って。
愛媛のみなさんの舞台は、だから、ほんとうに、頼もしいものです。
というわけで、僕もまたここで「語り継いで」みたいと思います。
こんなの、みなさんご存じでしょうけれども、重々ご承知でしょうけれども、知ってるよそんなの馬鹿にすんなよコラとお腹立ちでしょうけれども、忘れちゃいけない言葉だと思うので、しつこく紹介しておきます。
例によって、長いぞ。
これは、二〇一四年五月二一日に福井地方裁判所で出された判決文の抜粋です。このとき、福井県大飯原子力発電所の再稼働を認めるかどうかが争われ、裁判所はこれを差し止める判決を下しました。
「原子力発電所に求められるべき安全性,信頼性は極めて高度なものでなければならず,万一の場合にも放射性物質の危険から国民を守るべく万全の措置がとられなければならない。
原子力発電技術の危険性の本質及びそのもたらす被害の大きさは,福島原発事故を通じて十分に明らかになったといえる。本件訴訟においては,本件原発において,かような事態を招く具体的危険性が万が一でもあるのかが判断の対象とされるべきであり,福島原発事故の後において,この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するに等しいものと考えられる。
被告は,大飯の周辺の活断層の調査結果に基づき活断層の状況等を勘案した場合の地震学の理論上導かれるガル数の最大数値が七〇〇であり,そもそも,七〇〇ガルを超える地震が到来することはまず考えられないと主張する。しかし,この理論上の数値計算の正当性,正確性について論じるより,現に,全国で二〇箇所にも満たない原発のうち四つの原発に五回にわたり想定した地震動を超える地震が平成一七年以後一〇年足らずの間に到来しているという事実を重視すべきは当然である。地震の想定に関しこのような誤りが重ねられてしまった理由については,地震学の限界に照らすと仮説であるアスペリティの存在を前提としてその大きさと存在位置を想定するなどして地震動を推定すること自体に無理があるのではないか,あるいはアスペリティの存在を前提とすること自体は問題がないものの,地震動を推定する複数の方式について原告らが主張するように選択の誤りがあったのではないか等の種々の議論があり得ようが,これらの問題については今後学術的に解決すべきものであって,当裁判所が立ち入って判断する必要のない事柄である。
大飯原発の周辺において,被告の調査不足から発見できなかった活断層が関わる地震が起こりうることは否定できないはずであり,この点において被告の地震判定は信頼性に乏しい。
この地震大国日本において,基準地震動を超える地震が大飯原発に到来しないというのは根拠のない楽観的見通しである。基準地震動に満たない地震によっても冷却機能喪失による重大な事故が生じうるというのであれば,そこでの危険は,万が一の危険という領域をはるかに超える現実的で切迫した危険と評価できる。
被告は本件原発の稼働が電力供給の安定性,コストの低減につながると主張するが,当裁判所は,極めて多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その議論の当否を判断すること自体,法的には許されないことであると考えている。我が国における原子力発電への依存率等に照らすと,本件原発の稼働停止によって電力供給が停止し,これに伴って人の生命,身体が危険にさらされるという因果の流れはこれを考慮する必要のない状況であるといえる。
被告の主張においても,本件原発の稼働停止による不都合は電力供給の安定性,コストの問題にとどまっている。このコストの問題に関連して国富の流出や喪失の議論があるが,たとえ本件原発の運転停止によって多額の貿易赤字が出るとしても,これを国富の流出や喪失というべきではなく,豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失であると当裁判所は考えている。
被告は,原子力発電所の稼働がCO2(二酸化炭素)排出削減に資するもので環境面で優れている旨主張するが,原子力発電所でひとたび深刻事故が起こった場合の環境汚染はすさまじいものであって,福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」
実にまっとうで、知性にあふれた言葉だと思います。こんな判決が福井の裁判所で出されたことを、僕たちは誇りに思うことができます。
「多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いの問題等とを並べて論じるような議論に加わったり,その議論の当否を判断すること自体,法的には許されないことである」
「豊かな国土とそこに国民が根を下ろして生活していることが国富であり,これを取り戻すことができなくなることが国富の喪失である」
「福島原発事故は我が国始まって以来最大の公害,環境汚染であることに照らすと,環境問題を原子力発電所の運転継続の根拠とすることは甚だしい筋違いである。」
美しく、力強い言葉だと思います。なんでこれが教科書に載らないのか、不思議です。
どうかみなさん、拡散希望。
(玉村徹)