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◆2022年7月16日、「表現の不自由展、その後」をつなげる愛知の会 主催で「明日のハナコ」がリーディング上演されました。そのようすはこちらです。
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◆その報告の記事はこちらです。
 

『明日のハナコ』、名古屋をゆく。 (前編)

 

                                       玉村徹

 

7月16日、『「表現の不自由展、その後」をつなげる愛知の会』の方々からのお呼ばれで、名古屋に行ってきました。場所は「いーぶる名古屋」。丸尾聡さん率いる「プロジェクトオフィスM」による「明日のハナコ」のリーディング上演があって、そのあとのアフタートークに参加したんです。

 

丸尾さんたちは、すでに3月に東京と神奈川で「明日のハナコ」を上演されてましたが、今回はまた(僕が偉そうに言えたことではないけれど)さらに進化していて、素晴らしい上演でした。見に来れなかったみなさん、すごくいいものを見損なったんじゃないかしら。

「リーディング上演だったけど、実際に劇を上演しているような感じがしました。今を生きることだけでなく未来を生きることも考えなければならないということがとても伝わってきました。」(10代)

「演劇はここのところ全くみていなくて「ちゃんとセリフがききとれるかな?」「なんかハードル高いな」と思いました。でも今日は本当に良い体験をさせていただきました、よくわかりました。」(50代)

「セリフとてもよかったです、動き、音楽も。役者さんたちすごい!です。」(70代)

「迫力ある内容でした。素朴に多くの人、特に中高大学生に見て欲しい、いや10代、20代、30代の若い人に見てもらいたい。」(60代)

「久しぶりの演劇鑑賞(コロナ禍で中止OR 自粛だった)4人の方、特に女性の2人の熱演に拍手をおくります。」(年齢未記入)

「実際の行動、生活様式で進めるのではなく語り調の進め方であったこの形の演劇はおそらく初めてだったがよくわかりスムーズに話に乗って行けた。語り、表現という配役の人たちのうまさによるのだろうと思う。1時間という時間を短く感じた。よい演劇であった。(70代)

 

今さら言うことでもないと思いますが、劇において脚本というのは、骨格のようなものです。確かにそれで劇の大枠が定まる、そういうところはある。でも恐竜の骨にどんなに肉付けしていっても清原果耶さんにはならない(すんません、「おかえりモネ」大好きなんで)。骨は骨です。骨に恋する人はいません。やっぱり演出家や舞台スタッフや、とりわけ役者が血肉を加えて初めて骨格は永浦百音として輝きを放ちます(すまん、大好きなんだもん。おんなじくらいの魅力を感じたんもん)。だから、本当に素晴らしい努力だったと思うし、本当に素晴らしい舞台だったと思います。

 

それから『「表現の不自由展、その後」をつなげる愛知の会』のみなさまにも感謝を。「表現の不自由展、その後」については、知れば知るほど悲しく、かつまた怒りに燃える経緯があります。詳しくはこちらを見てください。

https://twitter.com/SaikaiAichi  またはhttps://www.facebook.com/saikai.motomeru.aich

粘り強く活動している方たちと出会えると、勇気がもらえます。もう少し頑張れる気がしてくる。世の中には「空気を読む」とか「忖度」とかいろいろありますけど、それらのおおもとにあるのは「無力感」だと思います。自分が無力な存在だと思うからまわりの目が気になって、まわりに合わせた行動をしようとする。自分が無力な存在だと思うから、上位の権力者の気持ちを勝手に推測して、その意思にすり寄った行動をしてしまう。自分はなにもできない、所詮大きな社会の枠組みの中では個人にできることなんかない、だったら正義感や立て前なんかを貫き通すよりも、寄らば大樹の陰、力のあるもののところに行って恭順の意を示して尻尾振って土下座して愛想ふりまいて這いつくばっていた方がいい、そうすれば今の生活や給料は守られる。家のローンや子供の塾の費用はなんとかなる。ときには悔しいなあと星空を見上げて涙することはあるかも知れないけれど、むしろ俺はこんな苦労までして生活を守っているんだという自己満足は得られる。そこには、良心や信条を曲げても、いや曲げたからこそ得られる、倒錯した達成感と自負が生まれます。「俺はこんなに頑張ってる」・・・もとはただ、自分が無力であったというそのことに耐えられなかっただけなのに。

でも。本当に僕らは無力なのでしょうか。そう思い込んでいるだけじゃないでしょうか。あるいはまわりがみんな同じ無力の烙印を押されているから、日々そんな人間たちとしか話をしていないから、したことがないから、世界のみんなが無力なのだと勘違いしているだけなんじゃないでしょうか。

「様々な問題があり、それを考えるきっかけとなってよかったと思います。まわりの人が賛成しているからと言う考えに陥らないことが大切だと思います。様々な意見を受け入れていく眼が必要ですね。」(60代)

「原発立地嫌悪苦悩もちゃんとわかる福井県でしかかたれないセリフが沢山。この作品は全国で上演して欲しいです。「表現の自由」「心の自由」を権力によって侵害されることほど屈辱的なことはないと思う。」(60代)

「高校生がふだん考えている言いたいことをいう演劇こそ高校生の演劇と思う。社会と自分を考える良い学習・表現だと思います。言われたとおり、しごかれてやるスポーツに時間を費やす、それが青春だと思われている感じがします。」(70代)

「私たちができる範囲で未来のことを考えようと思ったし、でも自分のこともちゃんと考えたいからその調節がむつかしいんだと思う。自分は今、自分ができることをしたい! 現在でもプラスチック削減とかごみ袋有料化とかいろいろあるけれど10 年後、20 年後・・・・10 万年後にどんな結果になっているかはわからんし、そんな何万年も先のことなんて気にするわけない。「みんな今の自分のことで精いっぱいなんだ」というのは共感した。今を楽しく生きようとする反面、先を見ない行動になってしまう。今回の原発の話も「今」のメリットばっかり考えていた。夫の気持ちと未来を見つめながらも目先の楽しみを結果的に追うことになってしまった嫁(ハナコ)の気持ち、両方分かった。人間の特性による歴史をたどることで、2 人の演劇部員は気づいたこととか、今を変えなきゃいけないという気持ちを自分なりに体現しようと歩み始めたわけだが逆にそういうことをしないと忘れてしまう。気づけない。同じことを繰り返す。ということになるのだとも気づいた。おもしろかった。先に書いた「メリット」というのはハナコの言う「お金があれば何でもできる」というのなど飛びついたのだとおもうけれど、昔ハナコがハナコの父親のために働いて働いて・・・・結局何にもならなかった。燃えてなくなってしまった。という過去。80 年くらいの人生でほとんど忘れてしまったのだろうと思った。忘れる生き物である人間は、同じことを繰り返すとともに時々大きな失態をおかすのだろう。」(10代)

 

最後の感想などは、いろんなことを書きたくてたまらない、心の中からあふれ出てくるような思いのほとばしりが感じられます。

演劇は能動的な活動だから、それを観た人たちにもその能動性が伝染します。自分も何かしたくなる。走り出したくなる。そして、走り出した人はもう、無力ではありません。

そして、一人一人が自分は無力じゃないと信じたところから、ほんとうの民主主義が始まるのだと思います。

 

「高校生が自分の故郷にある施設のことを話題にするのは何の不思議もないこと。しかもその施設は、自分たちの生活と密接に結びついた施設、それについて話題にしないことの方が不思議。高校生に参政権を認めておきながら、一方で生活に結び付いた話題を話してはいけないとする矛盾した言い分。」(70代)

 

それこそが今回の問題の根底に横たわっているものです。私たち大人が、子供たちにどんな教育をしているか。どんな大人になって欲しいと願っているか。まずはこの社会で生きていける大人、たくさん給料を稼いで安定した生活ができる大人、そのためにまわりから浮かない、集団に適応し順応できる大人。いい大学に入るとかいい会社に入るとかいうのは結局そういうことです。つまり、「無力な大人になれ」と言っているのと同じことではないか。

先生も親も、子供が物議を醸すようなことに手を出してもらっては困る、と思っている。そんなことは大人になって、自分でお金を稼ぐようになってからしなさい。今は、国語や数学や英語を頑張ればいいんです。でも、そんな教育を受けた子供たちが、卒業したとたん民主主義のなんたるかを理解し行動し始める、なんてことがあるでしょうか。社会の矛盾に気がついて、より良い世界を作っていこうと勇気を振り絞ることがあるでしょうか。お手本たるべき大人たちが、これまでずっと「何もしないこと」「空気を読むこと」「偉い人に目を付けられないようにすること」を選択してきたというのに。

 

劇が終わったあと、30分ほど、アフタートークに出ました。僕はここがお仕事です。丸尾さんとならんでいろいろしゃべった・・・はずなんですが、メタクソあがっていて内容を覚えていません。教員やめて1年半、どうもだいぶ脳味噌が劣化してきたようです。どなたかお客様、僕が何をしゃべったのか教えてください(T_T) 

でもアフタートークが終わったあと、やれやれと一息つこうとした僕のところに、次々といろんな方が話しかけてくださって、これには感動しました。みんなちょっと興奮したような、それこそ今にも走り出しそうな感じ。世界は捨てたもんじゃない。全然ない。

 

そのなかに、ある高校の演劇部員の子たちが来ていて、僕は久しぶりに高校生を間近で見たものだから・・・いいですねえ。やっぱり、なんだかんだいっても、高校生には未来がある。自分の身の丈を超すエネルギーがある。でも、こっちも上がってしまって何しゃべったんだか覚えてない。誰か、僕に教えてくれないか(T_T)

 

上演もアフタートークもそのあとの交流もみんな素敵なことばかりでした。世界は大変なことになっているし敵は大勢だし形勢は不利。でもだからといってあきらめるとかそういう話じゃない。そんなことを教えて貰った気がします。

 

「私の隣に演劇部の男子高校生の姿が・・・・食いつくように見ていた。何を考え感じたのか、ぜひ誇りをもって続けて欲しい。大人はそれを応援するからと伝えたい。」(50代)

 

ほんとに、そうです。そのとおりです。

◆2022年7月16日、「表現の不自由展、その後」をつなげる愛知の会 主催で「明日のハナコ」がリーディング上演されました。リーディングのチラシはこちらです。

最新情報がはいりましたら順次掲載していきます。

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「表現の不自由展、その後」をつなげる愛知の会。主催で「明日のハナコ」が上演されます。

 

上演するのは「オフィスプロジェクトM」。

「福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための『明日のハナコ』上演実行委員会 東京・神奈川」の名で敢然と首都圏初のリーディングを実現してくださった丸尾聡さんが主宰されている団体です。

7月。まさに表現の自由が制限された事件に対するいきどおりをとおして、この「表現の不自由展」の方々は、私たちとまっすぐつながっているのです。

 

くわしくは


https://twitter.com/SaikaiAichi 

https://www.facebook.com/saikai.motomeru.aichi

 

まで。

◆「私たちの『表現の不自由展・その後』」のこと。――玉村徹 2022年7月31日

はい?

「私たちの『表現の不自由展・その後』」ってなに? いやそもそも『表現の不自由展・その後』って?

 

そっか、そこから説明しないとわかんないか。あれからコロナやら戦争やらいろんなことがあったもんなあ。そんで僕ら、すぐ忘れちゃう生き物だしなあ。

 

ええとね、2019年に「あいちトリエンナーレ2019」という国際芸術祭が名古屋で開催されたんだ。その中の企画展「表現の不自由展・その後」 が、一部の政治家の反発と一部とはいえ少なくはない数の人たちからの電話・メール・FAX等による抗議を受けて開催後わずか3日で中止に追い込まれたんだよ。そのうえ文化庁は、同芸術祭に対して予定されていた補助金約7800万円を全額不交付にするって発表したの。詳しいことは『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件』(岩波書店)に書いてあるから、ぜひ読んで欲しいんだけど、まあすごい事件だろ。

 

え?

「一部の政治家の反発」って?

 

開催前日に視察に来たらしいんだよ、その「一部の政治家さん」。で、そのあと取材陣の前で「日本人の、国民の心を踏みにじるものだ。即刻中止にしていただきたい」と言ったらしいの。で、それが報道されたもんだから「一部とはいえ少なくはない数の人たち」が燃え上がっちゃって、中には「ガソリン持ってお邪魔する」なんて脅迫文送ってきた人までいて、まあ、この人はつかまって謝罪したらしいけど、とにかく安全が保証できないっていうんで、県知事が開催中止を発表した、というわけ。

 

これ、いろいろ突っ込みどころがあるよね。

たとえば「一部の政治家さん」は、いつから日本人や国民の気持ちを代表するようになったんだろう。すくなくとも私の気持ちをこの人が知ってるとは思えない。だからほんとはこう言うべきだったんだと思う。

 

「私個人としては、とても不愉快な気持ちになりました。でも、これは個人的意見なので、私以外のみなさんがどう感じるかはわかりません。どうか、ご覧になって、みなさんそれぞれにご判断ください。」

 

これが普通じゃないかな。ピカソの「ゲルニカ」だって、発表当時は「不愉快だ」って言う人はいたし、「はだしのゲン」だって「子供に見せるべきではない」なんて言う人が出てきて小学校の図書館から撤去されかかった事件があったよね。大人なんだから、もう少しちゃんと考えてしゃべって欲しいよね。

 

それから、「偉い人が言うと、みんなその言葉に流される」というのが二つ目の突っ込みどころ。雰囲気とか空気を読めとか言うけど、要するに「強そうな人の意見に従っておきましょう」ってことでしょ。正しいかどうかじゃない。自分で判断したかどうかでもない。これってかなりかっこわるい。

 

あと、脅迫メールが来たらこういうイベントはすぐに壊れてしまうんだけど、それは私らがやってる演劇でもおんなじで、たとえば上演直前に「会場に爆弾仕掛けた」ってメールが来たら、99パーセントイタズラだとわかっていても、やっぱり劇は中止になっちゃう。でも学校だってどこだって・・・国会だって同じじゃないかな。人間は脅迫には弱いです。社会は壊れやすいです。もともとそういうもんです。でも、だからこそ『脅迫なんかしちゃいけない』。それはミサイルみたいなもんです。相手を叩くことはできるけれど、向こうだって持っている。打ち合えば結局、そこに残るのは廃墟だけ。信頼関係の無くなった社会だけ。

 

それで「私たちの『表現の不自由展・その後』」の話になるんだ。

 

これはね、開催されなかった数日間を自分たちで補完しようという試みなんだ。「あいちトリエンナーレ」では途中で開催中止に追い込まれてしまった。じゃあ、残りの日数分、別に会場を用意して展示してやろうじゃないの、という勇気ある試みなんだ。もちろんその費用は実行委員会の人たちが自分たちで用意したんです。文化庁が補助金打ち切ったからね(その理由というのがまた、とんでもなくわけのわかんないもんなので、ぜひ自分で調べてみてください)。チラシにはクラウドファンディングの案内もついているので、ぜひご協力をお願いします。

先日「いーぶる名古屋」で上演した『明日のハナコ』も、この実行委員会の方々の尽力で実現したものです。つまり『明日のハナコ』も『表現の不自由展・その後』の端っこに位置づけられているわけで・・・なんか嬉しい。というか恐れ多い。というか誇らしい(^_^;)

表現の自由というのは、ただ表現する側だけのことではありません。それを見る観客の自由が必要です。表現を制限するときには、『それを見る自由』も奪っているんです。表現する側の自由も見る自由も、つまり莫大な自由を、莫大な権利を奪っている。それは絶対にしちゃいけない。

だから、表現する側にはもちろん『脅迫に屈しない』勇気が必要です。でもまったく同じ理由で、観客にも『脅迫に屈しない』勇気が必要なんです。私たちは力を合わせて「勝手に日本人を代表したり」「脅迫メールを書いたり」して、世界を廃墟にしようとする人たちに立ち向かわなくてはならない、と思います。

 

『観客』のみなさん、ぜひ「私たちの『表現の不自由展・その後』」に行きましょう!

                                                       玉村徹

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