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9条の会所沢やまぐち が上演してくださった。「明日のハナコ」のリーディング。

 

 実行委員会に、ご連絡をいただきました。

 

 「9条の会所沢やまぐち」では、4月の身内でのお披露目に続き、一昨日11月6日の山口公民館文化祭の舞台上で「明日のハナコ」を演りました。一般の方も観てくださりとても好評を得られ、「短い(20分)朗読劇だけれど、訴えたいことが十分伝わった」という嬉しい感想をいただきました。

……ありがとうございました。一般の方に見ていただけたということは、明らかに広がりがまた一段とここに出現した、ということです!

 一般の方もご覧になったというのは、本当に意義ある舞台であったのだろうと思います。劇は人数はいるし稽古はいるし会場の具合とか演出とか機器の操作とか本番の緊張とかとにかく面倒なものです。上演までもっていくのは本当に大変。玉村先生のとこの部活だと、上演二週間前に主役の生徒がいなくなるなんてこともありました。苦労ばかり、問題ばかり。それでも報われることがあるとすれば、上演後の拍手と嬉しい感想と仲間の上気した表情です。「訴えたいことが十分伝わった」というのは実に嬉しいことですね。

 ほんとです。

 ちいさな、ちいさな積み上げが、積み重ねが、私たちの人権を頑丈に守るんだと思います。うまれながらにして持っているのが人権、生まれた瞬間から抱え込んでいるのが人権。だけど、人生は、生活は、そういうことを捨てなさい、という誘惑、圧迫が常につきまとうものだ――鈴江は日々の生活の中で、日々出会う人から聞くエピソードの中から、そういうことを痛感しています。

 弱い立場のものはつねに、そうなのです。先日は岡山県の高校演劇の祭に審査員として呼ばれて11本の上演を見ました。知り合う先生たちの真面目、誠実な態度はいつもきもちをすがすがしくさせてくれます。でも。彼らがこうやって土曜、日曜に、休日に出勤して成立させているこの大会に、休日出勤手当はきちんと出ているのか。遠方に出かける先生たちに、出張旅費はきちんと払われているのか。……以前はゼロだったと聞きます。今もゼロの府県もあるでしょう。そして今だって、正当な額ではありません。働くものとして、不当な、手当もない勤務を強いられているのは間違いないでしょう。

 働くものは、雇う人に自由にこき使われていいはずはない。賃金をもらうから働くので、賃金をもらわないのに働かされるのは、一言で言えば「奴隷」と呼ばれる状態となにもかわらない。

 これは、まさに人権の問題です。人権を守るなら、きちんと、大人の労働にふさわしい金額を全教員が、全国で主張し、払われない限りはこんな行事に出かけていってはいけません。

 けれど、けれど。

 そんなこと言う人は、いま教員の中ではいないでしょう。……そんなこと言うなや。そんなこと言ってことをあらだてるなや。まあ、まあ。間をとって、これくらいの額でしんぼうせえや。……その間をとる妥協、ということで納得するのが「ふさわしい」大人なのです。大人、だとされているのです。この国では。

 しかし、本来、人権とは、妥協で削り取られたり値切られたりしていいものじゃありません。少女が父からなぐられる事件。100対ゼロで父には分がない話です。そんな時に「間をとって二回に一回はなぐられとけや」てなことにはならないはずです。だけど、昔から「親の言うことは聞くのがいい子」とされている、この世界の中で、苦情が言えないでだまっている少女はいま、この国にどれくらいいるでしょう。表には出てきません。だけど、私は想像してしまいます。

 人権は、「常識派」では守れないのだと思っています。私たちの動きは、現場の教員たちには非常識に映るのだろうことはここ一年の経験で熟知しました。身に染みて体験しました。しかし、その常識は、だれをどう守る常識なのでしょう。

 人権は、「常識」で値切られ、あるいは、この事件のような場合には、ふみにじられる。じゃ、どうしたらいいのか。

 ――おれっち、非常識派よ!――

 こう名乗る勇気が、問われているんだ、と私個人は日々自分に言い聞かせてます。浮いてしまう。ひかれてしまう。レッテル貼られてしまう。そういう不安、恐怖がどうしても付きまとう日々ではあります。開き直らなきゃ。と。

 けれど。動いても、常識派の範囲内だ、とみられる世の中であってほしい、そうつくづく願います。常識ある、穏やかな大人が、小さく、あちこちで、この「明日のハナコ」を上演する動きが、そういう世の中であることを「維持」するのだと思います。

 ――おれっち、常識派ですけどなにか?――

 こう名乗りつつ、上演をくりかえす人たちを増やすのが、真っ当なやり方なんだろうな、と思います。

 ナチスの時代にナチスの国で平和主義者であることは狂気だった。平和の時代に平和主義者であることは、かろうじて狂気ではないとされるけれど、いつまでもそれが保証されるわけでもないのだと思います。

 上演してくれるこの小さな動きを、だからあらためて、全力で支持します。

                       鈴江俊郎

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