top of page
2023年11月、「明日のハナコ」、世田谷区に現れる。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

「明日のハナコ」、今度は東京公演です。

昨年宮城県石巻でワークショップ+上演をしてくださった池田智哉さんが、今度は東京で上演されます。みんなで行こう!

  

 上演 「日曜日よりの使者」竜崎だいち(羊とドラコ)

    「明日のハナコ」玉村徹

      演出:池田智哉(24/7lavo・feblabo)

 日時 2023年11月22日(水)19:30

         23日(木・祝)13:00/18:00

    ※いずれの回でも2作品ご覧いただけます。

    ※受付開始・開場は開演の20分前。

    ※上演時間は2作品合わせて、100分弱を予定。

  場所 Paperback Studio(京王線・千歳烏山駅または芦花公園駅・いずれも徒歩7分)

  チケット (日時指定・全席自由席)

    前売・予約:3,500円

    18歳以下:1,500円(要年齢確認・当日可)

    ※チケット予約受付開始:2023年10月29日(日)AM10:00

  問い合わせ feblabo@gmail.com

       090-8560-3381

        http://feblabo.net/

 

以下は池田さんからいただいたメールの抜粋です。

 うっすらと世界が戦争に向かっていく中、私たちの生活が変わってきている。

 そのことに気付かない人や気付こうとしない人が多い気がします。

 大人は老いていく中、諦めている人が多いのかもしれません。

 僕もその中の一人かもしれない。

 でも、少しだけ希望を持てるなら、ハナコや小夜子のように希望を持てるなら。

 そのために「ハナコ」を上演できたらと思うところもあります。

 今回の企画でもう一本別の脚本と2本立てで上演しようと思っています。

 『日曜日よりの使者』という作品で、こちらは私が長らく宮城県石巻で上演してきた

 作品です。お話は、子供のころ海で友人を亡くした老人の今際の際に、見知らぬ老人が

 訪ねてきて、過去の記憶を辿る内に、その老人が誰なのかを思い出す・・・という内容

 の男性二人芝居です。

 いずれの作品も、想像(記憶)の世界に旅立ち何かを獲得する、という内容で、テーマ

 性は違えど、近いものを感じた作品です。

 片や、主人公が女子高生、片や、老人。

 過去と未来に思いを馳せる二作品同時上演にしようと思っています。

 観る人に何かを感じて貰えたらと思います。

 

 

こっから玉村です。

こないだ二〇代の若者と接する機会があったんですけど、「どうしてイスラエルのガザ地区で紛争が起きるのか」と尋ねられました。それはねイスラエルという国の建国から始まっていやナチスのユダヤ人虐殺もからんでるしバルフォア宣言もいやいやそれを言ったらディアスポラ以来のユダヤ迫害の歴史が・・・としゃべりだしたら宇宙人を見るような目で見られました。どのワードも全然聞き覚えがない。学校で習ってないそうです。そんなことはあるまいと思うんですが、そんなこともあるんですかね。

 

でまたこないだ。「退職教職員の会」というのに出てきました。いろんな話が聞けました。「退職して家で気の向くままに文章を書いて、表現の自由を満喫しています」なんて人もいました。なんでしょね。退職しないと表現の自由はなかったんですかね。退職したらいろんなしがらみがなくなって自由に書いているということなのだろうけれど。でも、表現の自由というのは、そういうしがらみに抵抗し、一歩一歩、領土を獲得していく、そこにこそ生まれるもんだ、と思いました。楽して自由なんか手に入るわけがない。でもその人、先生だったんですよ。

 

不肖タマムラ(ここで胸を張って)、教員の頃からいろんな脚本を書いてきました。原発のことは三回書いたし、教育問題も批判したし、避難民の苦悩も民族差別問題も書きました。まあ、高校演劇が発表の舞台だったのであんまり注目もされず、それでお目こぼしをされていたという側面もあるとは思うんですけど(^^ゞ)、それでも部員たちといろんな問題について話し合ってきましたし、それは胸を張ってもいいと思うんですよ(^^ゞ)

 

でもそんな僕も、家に帰ると、食卓でそういう話は出来ませんでした。家族に嫌がられるんです。おとうさんはどうしてそういう話ばっかりするの。そんなに自分の頭のいいところを見せつけたいの。どうせ出来もしないことばかりなんだから、おとうさんの話を聞くと暗くなるからもうイヤなのよ。

 

いや別に頭のいいとこ見せたいわけじゃないし。出来もしないことって、憲法を守ろうとか差別をなくそうとか原発の放射性廃棄物は危険だとか、当たり前のことばっかじゃん。それを論じて何が悪いんだよ。(ここで、「もしかしたら部員たちも本当は僕の話にうんざりしていたんじゃないか」という疑惑がわき上がってきたんだけれどそれはあえて押し殺して)正しいことをいって何がいけないんだよ。

 

で、これはいけないんです。駄目なんですね。こういう話題は日本のご家庭では駄目。じゃあ会社では、っていうとこれも駄目。社内で同僚に向かって「原発のエネルギーコストは廃炉処理の費用なんかをくわえると普通の火力発電とあんまかわんないって知ってた?」なんてささやいたら一発で友達をなくします。つまり日本ではどこに行ってもそんなことは議論できないんですね。

 

これ凄くないですか。僕たち日本人は、大事な社会の問題を議論する習慣も場も持たない民なんです(Twitterで吹き荒れるサヨクウヨクの暴言じみたやりとりは除外します。あんなものは議論ではないですから)。かろうじて議論し知識を得るところとして学校という「場」があるんだけど、そこでは限られた情報しか扱えないし、先生方は「しがらみ」を優先するので内容的にも深まったものにはなり得ない。結果として、「なんでパレスチナの人たちってテロばっかするんですか。コワーい」てな若者が出てくる。そして彼らも議論して自分の考えを鍛える場を持たないまま、大人になっていく。

 

どうしてそういうことになってるのか。いろいろな理由がありそうだけれど、一つ、僕が思うのは、「どうにもならないことを議論するのはバカらしい」という気持ちがあるんではないか。出来もしないことをことさらにいうヤツには、確かにイライラしますよね。今年の夏はことさらに暑かったけど、「暑い暑い、なんでこんなに暑いんじゃあ、なんとかならんのか」とか隣で叫ばれたら腹が立ちます。そしてそこには「どうにもならないことに直面している」という無力感と、それを味わうことに対する不快感もありそうです。

 

現実とは本来一面において与えられたものであると同時に、他面で日々作られていくものなのですが、普通(日本人が)『現実』というときはもっばら前の契機だけが前面に出て現実のプラスティックな面は無視されます。いいかえれば現実とはこの国では端的に既成事実と等値されます。現実的たれということは、既成事実に屈服せよということにほかなりません。現実が所与性と過去性においてだけ捉えられるとき、それは容易に諦観に転化します。」「国体という現実、軍部という現実、満州国という現実、国際連盟脱退という現実、日華事変という現実、日独伊軍事同盟という現実、大政翼賛会という現実---そうして最後には太平洋戦争という現実、それらが一つ一つ動きのとれない所与性として私たちの観念にのしかかり、私たちの自由なイマジネーションと行動を圧殺していったのはついこの間のことです。」(「『現実』主義の陥穽」丸山眞男・一九五二年)

 

諦観とは諦めることです。諦めるのは自分たちが「現実」に対して無力であると考えるからです。俺達がどれだけ文句言っても給料は上がらないし総理大臣は好き勝手に増税するしプーチン君は戦争をやめないし沖縄の基地は減らないし原発は汚染水を垂れ流す。そして無力であることはやっぱり悔しい。だから真面目に「現実を変えよう」なんていうヤツには腹が立つ。

 

でも、本当に現実は変えられないでしようか?

自由なイマジネーションと行動を取り戻したくないですか?

このまま、誰かにハンドルを奪われたまま、真っ暗な道を突っ走るバスに乗っていていいもんでしょうか?

演劇は、そして「明日のハナコ」の上演は、「現実」を自分の手に取り戻すための、一つの、ささやかな試みです。

どうぞみなさん、劇場へおいでください。

                                     玉村徹

20231104071030a79.jpg
bottom of page