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◆12月、愛媛の「明日のハナコ」チラシができた!

 チケットも発売されてます。
 集団名が「MAMMA」。なんてよむんだろうか。まんま、だろうか。ママたち?いやごはん、っていう意味だろうか?
お母さんたちはもうそりゃ黙ってられないだろう。自分たちの子供が、子どもたちの世代が、このままだったら大変な目に合う。「闘われない権利は、奪われる」のだ。それは人権というものが人の世に確立されてから、いや確立される前から一貫してそうだった、っていう法則なのだ。だから、こうして自分の周りにおきてしまう理不尽に対しては、気づいた人は、「こら!」って怒って闘わないといけないのだ。

 それは家の近所のみちばたに落ち葉がたまってるのを見つけたらほうきもってって集めて掃除しとこう、というのとなにもかわらない。だれもかわりにしてくれない。自分がしなくちゃ。そして、ひとごとじゃない。自分のことだ。だから自分でやるのだ。

 

 人権は、もっていると自然なもので、あたりまえのものに感じるのだきっと。それが失われたときに、はじめて「あ。貴重なものだったんだ」と気づく。実感としてわかる。自由なことが言えなくなったら、生きにくい。言っちゃいけないことがたくさんあるのは生きにくい。そんな世の中に、黙っているうちにじわじわなっていくのだから。

 そして、表現する自由、ってごはんみたいなものだ。当たり前に、生きていくための栄養だ。言いたいことを言う。みんなの幸せを語る。言いたいことを言えない世の中って、要するに戦争で子どもが死んだときに「ありがとうございます。名誉です」と言わないといけなかったあの時代のことだ。それは昔話じゃない。実際にあったことだ。しかもこの国の、そこらへんで。あなたと私の住むこの地面で。フィクションでも大げさなことでもない。

 ご飯を食べて、私たちは幸せを感じたい。ご飯食べるみたいに、いつでも言いたいことを口々に言いたい。自由って、すばらしい、風みたいなものだよ。そこらへんを自由に、吹こうよ。

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 12月は愛媛へ。東温市へ!
 

 
 
 
 
 
 
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◆2026年12月。愛媛で「明日のハナコ」が上演される。ユニット名は“TORAUMA(寅午)”。​
 

 出演は青野悦子・曽我部朋子・松本由起子の女性三人だ。

 以前、松山の教育会館で「明日のハナコ」を熱演してくださった青野悦子さんが、愛媛での第二弾の上演にふみきられる。

●「明日のハナコ」のリーディング劇。

●日 …… 2026年12月19・20日。

●場所 …… 愛媛県東温市 横河原ぷらっと

 

 どうぞぜひ、上演に期待している。

 どうぞぜひ、力強い上演を期待している。

 鈴江はぜひぜひ、その日、ぜひ観劇にうかがいます。

 

 なにしろ、上演されるニュースを世界におくりとどけること自体が、私たちにとってはこの作品を排除した権力者、保身の人たちへの抗議行動になると考えています。

 それはそのまま、この軍事化していく日本の流れを食い止めるための小さいけれど確かな動きなのだと思っています。

 

 私たちの小さな一歩は、小さいように一見見えるけれど、実は効果は小さくない。

 一つには、わりと権力者、行政の中枢部局の職員は気にしてニュースを見ている。市会議員、県会議員、国会議員の秘書たちは動きを注視している。今どこまで彼らがフリーハンドに物事決められるか、権力だけが得する決定、民衆や市民にだけ負担を押し付ける決定をしても反発がこないか、臆病にうかがっているものだ。

 二つには、市民の世界に、言い換えれば世間に、どんな意見があるか、を、ぼんやりと市民が、空気のように感じ取っている。そこかしこに反権力的な言説、動きがあるのが「ふつうだね」と感じられる日常……こんなのがあれば「私もなるべく普通でいようとおもうのよね」という大多数の平凡な市民のつもりの人たちだって、「私もある程度は反権力的な意見を理解はするわよ。賛成よ」となるのだ。

 

 意識ある人たちよ。少しは目覚めている、って気持ちがある人たちよ。物心がついて間もない若者たちよ。無力ではない。私たちは無力ではないのだ。声をあげ、なにか表現しよう。表にでて、町の人に、自分の考えを表示しよう。それが小さく積み重なったら、街に「空気」ができる。息のすえる空気ができる。

 

 権力者を批判することができなくなっている国は今、どちら言うと増えている。優勢になりつつある。天安門事件について書けない、話せない中国は今や大国だ。プーチンに逆らうと投獄されるロシアはまだまだ元気に戦争を継続している。税務の公務員に脅しをかけて沈黙させて自分の不正行為を調査させないトランプが立派に権力のトップにいる米国は間違いなく世界の超大国だ。残虐な爆撃を容赦なく継続しているイスラエル国内では反政府の動きはすっかり萎縮させられている。

 

 日本はどうか?みなさんの身近な周りでの会話はどうか?

――原発ってあっていいの?とか。

――消費税が増えた分、企業の内部留保が増えて、ためこんだだけなんだよね、とか。

――3割の投票で7割の議席がとれる小選挙区制ってそもそもゆがんでるよね。とか。

――兵器を輸出できる国になってしまったら、もう企業がそれに頼ってしまうように変化していくのじゃないの?とか。

 そんな会話、普通に雑談でしてますか?そんな政治や社会のことを話題にすることが「ださい」ってことになってませんか?「職場の周りに聞かれたらまずいすよ」とかいうことになってませんか?私の身の回りでは、すこし、なってます。そう感じます。皆さん、どうですか?

 そんな私たちのまわりの空気こそが、私たちのまわりの「ふつうの」投票行動に直結します。投票行動が、結局発言の自由度をきめます。つまり、日常生活のまわりのちいさなことが、大きな権力のことを決めるのです。

 

 日常をすてきに、権力を問うネタでいっぱいに飾りたい。自分たちの小さな権利を賞賛する話題で飾りたい。小さなものの小さな権利が大切にされるのが楽しいね、っていう話題で飾りたい。すてきな人権を守るすてきな闘いのエピソードをみんなが共有できるように、飾りたい。そういうのが「ふつう」になったら、私たちの人権は「ふつう」に守られます。

 

 いろんなネタを、稽古中のネタ、つぶやき、いろんなことをニュースとして頻繁に発信してやりたい、と考えるのです。この青野さんたちのチームに期待しよう。期待してい、ます。

 

 「伊予の国シェイクスピア」という芝居の打ち上げで、東温市民劇団の曽我部さんが「明日のハナコ」をやりたいというので、ぜひ実現させましょうということになり、始動を始めました、ということらしいのです。

 練習の開始は、9月から。稽古の写真なども送ってもらえるらしい。どしどし報告します。

青野悦子さん、曽我部朋子さん、松本由起子さんの三人によるユニットMAMMAが「明日のハナコ」のリーディング上演をしてくださる。

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                                                (玉村徹 筆)

   日時 2026年12月19日(土)・20日(日)

 場所 横河原ぷらっとHOME(愛媛県東温市横河原189番地4)

 

 これだけでもう十分なんですけど、嬉しいので蛇足をまた少々。

 

 これまでに「明日のハナコ」はたくさんの人たちの手で、たくさんの場所で上演されてきました。劇を上演するということは、それがどんな劇であっても簡単ではありませんから、作者としてこんなにありがたい話はないんです。ほんとに。

(とはいえ、「簡単ではない」ということは、「苦しい」とか「つらい」という意味ではありません。このへんはあとで説明します。)

 

 いきなり違う話になります。

 近頃、災害のニュースがよく報道されます。地震や豪雨、洪水。地球はいったいどうなってんだ、とため息が漏れそうになります。そのうえトラン○とか○ーチンとかいう人間災害まで大暴れしてる。いったいどうなってんだ。

 

 僕が暮らしている福井も、今年8月30日、豪雨災害に見舞われました。線状降水帯が発生して一時に大量の水が空から降ってきて、いくつもの川が氾濫してたくさんの家が浸水被害を受けました。僕の知り合いの農家のおっちゃんが電話で語っていました。

 「あさって稲刈りする予定やったんや。ほやけどうちの田んぼは低いところにあるさけ、いまごろは水の下やと思う。とにかく見に行こうと思ったんやがみんなに止められてなあ。『おとうさん、ほんなことしたら死んでまうで』って言われてなあ。今年は米は全滅かもしれん。」

 

 僕のところはどうだったかというと、隣に小さな川が流れてまして、これがもう少し大きな川に直角に合流する、そのカドに我が家があるんです。そんで、この合流地点がいつも氾濫する。大雨になると上流の山から木の枝やら古タイヤやら大量のゴミやらが流されてきて、ここにたまってダムを作って水をせき止めてしまうんです。

 

 その日も夜明け前に激しい雨音で目を覚ましました。外へ出てみると傘を差していてもびしょ濡れになるような豪雨。小さな川はあと10センチくらいで道路に溢れそうなヤベエ川になっていました。もちろん合流地点には「ダム」が出来つつありました。やべえ。

 

 そこで僕は濁流に腰をかがめ(アカン)、水圧でガチガチに絡み合った木の枝やらなんやらを引き上げ(アカンアカン)、水の通り道を作る作業を始めました。こういうの、アカンのです。そんなことやるから水の犠牲者がへらんのじゃ。と、知ってはいたんですが、やんなきゃどうしようもない。ことは一刻を争う。

 

 僕がパンツをびしょびしょにして川から廃物をうんうん引き上げていると、人が集まってきました。隣のおっちゃんやら町内会長やら元町内会長やら元元町内会長やら農家組合の理事さんやら(このへんはみんな80歳代)、消防団の方たちやら、いろんな人が「自然に」やってきました。

「タマムラさん、ほうゆうのは一人でやったらアカンで。ちゃんと声かけな。」

「ほや、代わってやらなアカンで。腰痛めるで。」

「ほやほや、働き方改革や」「残業はあかんもんなあ」

「うらは腰痛めてるで口しか出せんけどなあ。うはは。」

(注・「ほうゆう」は「そういう」、「ほや」は「そうだ」、「うら」は「私」の意味です。念のため。)

一抱えもあるような切り株をみんなで引き上げると、水は勢いよく流れ始め、水面は少しずつ下がっていきました。我が家は浸水を免れました。

 

 こんな出来事が、あの頃、あちこちで起きていたんだろうと思います。

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 「8月29日夜から30日にかけて福井県嶺北地方を襲った記録的大雨で、福井市みどり図書館は浸水被害を受けた。(中略)市は大雨被害が見込まれるため30日未明、管理職以上の職員を非常招集した。同図書館の職員たちは午前5時45分頃までに3カ所ある入り口に止水板を設置し、止水板を補強するように土嚢を積んだ。(中略)いったん弱まった雨は再び強くなり、止水板の外側の水位は約30センチに。同8時45分頃、止水板の下から染み出すように水が入ってきた。福井豪雨(注・2004年7月にも福井県嶺北地方から岐阜県西部にかけて豪雨災害が起きました)の被害を知る高齢者や近隣住民も駆けつけ、ポンプやほうき、バケツを使って人海戦術で水をかき出した。」(福井新聞・2026年9月4日付けの記事より)

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 災害は悲惨です。水につかった米は駄目になります。図書館は復旧工事のため今も閉館しています。浸水した家は床下に流入した泥を全部かき出して、使えなくなった家財道具を処分して・・・気の遠くなるような作業を経ないと日常生活は戻ってきません。それは間違いなく悲劇です。

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 だから「災害は悲劇である」ということはもちろんそうなんですけど、それでもやっぱり人間は弱くはない、と僕は思います。確かに豪雨も地震も、人間よりも遙かに巨大な力でしょう。でもだからと言って僕たちが無力であるわけではない。

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 「あの地震と火事について最も素晴らしかったのは人々の対応の仕方だった。通りを走り回ったり、わめいたりといった行動はまったく見られなかった。そんなことがあったなどという歪められた話があったとしたら、それは単なる嘘だ。人々は場所から場所へと冷静に移動し、むしろ無関心な表情で火事を見物し、無理矢理ではなく自然にジョークを飛ばしていた。その恐ろしい二昼夜に、私は泣いている女性をただの一度も見かけなかったし、泣き言やすすり泣きも聞かなかった。わずかな当面の必需品以外、何を持ち出そうとしても無駄なので、富める者も貧しい者も一様にただ見守り、待ち続けたが、強烈な熱さのために移動しなくてはならなくなると、彼らは笑いながら立ち上がった。」(レベッカ・ソルニット「災害ユートピア」(亜紀書房)50ページ)

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 これは1906年のサンフランシスコ地震とその後に続いた大火災の回想録の引用です。ところがこのあと軍隊が入ってきて、被災者を「略奪に参加している暴徒」と見なして銃を向け、結果、多くの死者が出てしまいます。

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 秩序を担う人たちは、自分こそが秩序を司っているという自負を持つが故に、自分以外の人間たちを見下しがちです。一般民衆はすぐにパニックになる。正常な判断力を失う。暴徒になる。だから、我々が教え導かなければならないのだ。秩序を回復しなくてはいけないのだ。綿密な計画のもとに、有識者や専門家の指導の下に、復興はなされなくてはいけないのだ。もちろんここにあるのは、「人間というものは所詮、無力で、欲望に負ける、弱い生き物だ」という認識です。だから避難民が暴徒に見えてしまう。

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 ここでまた話は変わるのですが、僕は、現代人は「災害」の中に生きていると思っています。災害といっても洪水や地震ばかりではありません。環境破壊や温暖化だって「災害」だと思います。戦争や経済的格差や資本主義の暴走、少子高齢化、将来への不安、物価高、いじめ・セクハラ・パワハラ、原発事故、ネット中毒にドパガキ問題、独裁国家の隆盛に世界規模の再軍備、数え上げたらきりがありません。

 

 なのに、民主国家で暮らしている僕たちに何が出来るのか。僕たちの手の中には、わずかに「1票を投じる権利」があるだけです。それがいったい何になるのか。世界を変えるにはあまりにちっぽけな武器です。これで無力感を感じなかったら、そのほうがおかしい。

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 ○ランプやプーチ○の罪はいろいろあると思いますが、一番は世界の人々を無力な位置に押し込めてしまったところだと思います。「僕たちが何をしようと、彼らを押しとどめることはできない。」そういうふうに僕たちが考えざるを得なくなっている。ちょうど中世の王様がそうであったように。ちょうど中世の農奴がそうであったように。僕たちはいつのまにか、歴史を逆行してしまったようです。

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 どうしたら僕たちは世界を取り戻せるのか。その答えは、やっぱり災害の中にあるように思います。

 

 「大きな避難所にいれば、様々な物資も入ってくるし、なにより行政やボランティア団体が運営をしているので問題はないかといえば、必ずしもそうではない。(中略)常駐しているボランティア団体にはおかしな決まりごとがある。避難民には必ず平等に接しないといけない、平等に物資を配らなければいけないというものだ。

『その避難所に五〇〇人いたとすると、そこのボランティアの奴は、五〇〇人分集まってないと渡せないってバカなことを言うんですよ。でも、うちは、「いまは一五〇人分あるから、お前の判断で一五〇人に配れ。年寄りと子供からだぞ。とりあえず、お前は我慢しとけ。次々物資投入するから」って持って行くんです。そうすると、みんなありがとうって言ってくれますよ。

 大きなボランティア団体はどうしてるかっていうと、五〇〇人分がやっと集まりました、さあ配りましょう、ってころにはみんなすでに持ってる。結局その五〇〇人分は塩漬けですよ。オレから言わせれば、ちゃんと気を利かせて、寝たきりのお年寄りが凍えちゃって大変だから、防寒着が少し入ってきたら、まずそこからだなって渡せばいいんですよ。それで文句言ってくる奴には「うるせえ、このヤロー。おめーはちょっと我慢してろ!」でいいんですよ』」(頓所直人「笑う、避難所」集英社新書・2012年)

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 これは2011年の東日本震災の時に、石巻に作られた「明友館」という自主避難所(指定避難所と違って行政の支援が届かない)の様子を描いた記録の引用です。ここにはかなり強引ではあるけれど、個人から組み上がっていく、生き生きとした判断と行動の姿があります。

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 本当に僕たちは無力ではない。僕たちは自分をもっと信じていい。浸水の危機にあった図書館に人々はちゃんと集まってきました。増水する川のほとりにも集まってきました。僕たちは無力なんかじゃありません。

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 それでも自分を信じられなかったら、劇を作りましょう。劇を作るのは大変です。脚本も必要です。役者も舞台も練習会場も練習時間もエナジードリンクも必要です。一人ではとても出来ません。力を合わせなければ出来ない。でも「力を合わせたら」出来る。一人一人が、立ち上がったら、できる。劇作りは、自分が無力なんかじゃないということを知るプロセスです。それは自分の復活です。であれば「楽しい」ことに決まっています。

 

 それでも、もしあなたが、自分には劇なんか作れっこないと思うなら、東温市の「明日のハナコ」を見に来てください。そこには、無力じゃない人たちがたくさん集まっているはずです。

                                                                               (玉村徹)

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